【ネタばれあり】残虐すぎる燕山君が描かれている「七日の王妃」

 溜め撮りした「七日の王妃」20話分を二日間で駆け抜けて視聴しました。いやー、こんなに残虐な王がいたんだ・・・と、なんども目をそむけながら見終えました。実はクロスステッチの刺繍をしながらなので、ずっとテレビを凝視していたわけでもなく、むしろちょうどいいくらいでした。

 「チャングムの誓い」は私にとって初めての韓国ドラマだったのですが、そこに登場している中宗の若い頃(晋城大君、チンソンテグン)、王に即位するまでの兄(燕山君、ヨンサングン)との確執をシン・チェギョンという女性を兄弟で奪い合う恋愛模様も交えストーリーにしたものです。韓国史上最悪の暴君と言われる燕山君がどのように壊れていったか、残虐、非道だったかがこれでもか!というくらいに描写されていました。全部、演技だよね、特殊撮影とか加工とかだよね・・・と思いつつも、ちょっとリアル過ぎて音だけでも十分身の毛もよだつほどの怖さでした。

 晋城大君とチェギョンのラブストーリーでもありますが、個人的にはこんな恋人/夫婦はあり得ない、少なくとも政略結婚ではないのだから、こんなお互いに隠し事をしながら疑いあう関係がちょっと理解しづらく、感情移入できなかったです。実はそのあたりをとっぱらってしまうと、この二人の純粋な恋愛感情というのはほんとにわずかな時間でしかなく、結局ストーリーのほとんどはお互いがお互いの腹を探りあう、隠しごとを秘めているだけなんだな、と思うとちょっと興ざめしてしまいました。だから、今回も胸キュンがありませんでした。なにしろ、晋城大君が口頭では好きだ、好きだと言っておきながらもチェギョンへの配慮や心遣いがほとんどなく、ちょっとバカにしてんじゃないの?と思うくらい。贈り物をする、優しい言葉をかける、女性として思いやる、一緒に時間を過ごせるように配慮するなどがほとんどなく、チェギョンの片思い?と思わせるほど。結局、密旨(みっし、先王の遺書)目的にチェギョンを利用しているだけと思えない行動の数々。むしろ、燕山君の方がチェギョンへの優しさを垣間見せてくれました。

 チェギョンも天真爛漫なヒロインではありますが、そこまで賢いわけではなく、個人的にはその思慮のなさがいろんな事件を引き起こし、晋城大君を窮地に立たせているという自覚に欠けていることに、ちょっと腹立たしさを覚えたところもあります。両班(リャンバン、身分制度の一番上の貴族相当の身分)の出でありながら、世の中のことを知らなさすぎ、自分の置かれている立場を理解しなさすぎ、あまりにも無知。こんな人が国母として王妃になっていいものか?と疑うほどでした。そういう演出がこのストーリーの動力になっているのかもしれませんが、ちょっと行きすぎのような気もします。

 むしろ、暴君だった燕山君の方がよっぽど人間っぽい、ただ愛情に飢えた王様だったといえます。幼い頃に実の母親が父親である王様に疎まれて廃妃として亡くなってしまい、異母兄弟の晋城大君が愛情たっぷりの中で育ったのとは対照的に愛情不足の中で育ったせいもあって、精神的に未熟で不安定な王様になってしまいました。ただでさえ、孤独な王という立場であるのに、王自身が精神的に未熟であるために、人を信用することができず、疑念、疑念、疑念の塊になってしまい、自分のことを一人の人間として愛してくれる存在に恵まれなかったのが暴君になってしまった原因のひとつと言えるみたいです。チェギョンと燕山君が最初に出会ったときは、王様だとは知らずに接したこともあり、唯一チェギョンだけが人間として接してくれることに恋心を抱き、知らず知らずのうちにこぼれてくるチェギョンへの優しい気持ちや態度がとても胸をうつものでした。でも、本人はそれが恋だとも知らず、どんどんチェギョンを追い込んでいくところが暴君故なのですが・・・。

 そして、この暴君を演じたイ・ドンゴン、私は初めてみる俳優さんでしたが、途中から本当に燕山君が憑依して俳優さんが乗っ取られてしまったのではないか、目の前に本物の燕山君がいるのではないかと錯覚するくらい、ものすごく迫力のある演技でした。端正な顔立ちで、背も高く、精神的な不安定さは別としても、剣を持たせても弓を持たせても武術にたけており、とても頼もしい、かっこいい王様でした。それが時々、病気のように何かがきっかけで精神的に不安定になると、耳を疑うような発言、しいては王命を発動して暴挙にでてしまうのです。精神的に不安定になる要因のひとつにはチェギョンが否定できません。もちろん、本人もチェギョンも側近も気づいていないようですが。愛情に飢えているがゆえに晋城大君に嫉妬し、自分の王座が奪われるのではないかと疑心暗鬼で心穏やかでない状況が続いているのです。誰も信じることができないし、かといって強い信念や精神力を持っているわけでもないので、反対されると否定された、自分の存在が疎まれたと勘違いして殺戮を繰り返してしまうのです。そんな狂気の王様をイ・ドンゴンは見事なほど演じきっていました。私は、燕山君が時々正気に戻り、にじみ出るチェンギョンへの恋心のほうがとても貴重なものに見えました。そういう難しい役を完璧なまでに演じたイ・ドンゴンに乾杯ですね!

 それにしても、この王座をめぐるドラマは何度みても本当にむなしいなと思います。どこかのドラマでは「浮生」と言い表していましたね。王座に無限の可能性と最大級の希望を描いていたはずなのに、とても窮屈で、できることは限られており、本当の欲望を満たせるものではなく、孤独で、建て前で飾られた人形でしかないうえに、今度は追われる側になって王座が奪われるのではないかと疑心暗鬼になるというのも、その座についた人の共通認識・体験。自分だけは違う、自分は変えられる、と期待しつつも結局変わらないという現実。とても裕福でなんでも持っているように見えるけど、人間として人間らしく生きていくことがかなわない悲劇が何度も何度も繰り返されていることに人間らしさを感じます。時代や国は異なってもどこでもこの状況は変わりませんね。何かを得るためには何かをあきらめなくてはならない、と言われますが、まさにこの心境でしか納得せざるを得ないのでしょう、現代になっても。

 公と私との葛藤。みんなこの二つの側面をもって生活していますが、おそらく王座についた人は公がほとんどで私は皆無であることをあきらめなくてはならない、というのが常なのでしょう。これは今の時代にもそのまま言えることで、そのバランスから得られるもの(地位や報酬など)に影響しているのです。多大な地位や報酬を求めるのであれば、私の部分はあきらめなくてはならない。ここで無理をするととてもアンバランスなことが生じて、ひずみが起きる。自分が納得できるバランスはどこなのか?それを考えさせられました。

 韓国歴史ドラマは何本も見ましたが、同じような顔ぶれが多い中、全くと言っていいほど知らない俳優さんばかりでとても新鮮な感じがしました。個人的には、ヒロインのパク・ミニョンは日本の女優さん、ちょっと名前は失念しましたが・・・にとても似ていて、しょっちゅう入れ替わってしまいました。特に、イ・ドンゴンはこれからも注目していきたい俳優さんです。

【ネタばれあり】「総理と私」は胸キュンがなくてだめだ・・・

 契約結婚/恋愛系ネタのドラマ第三弾とでもいいましょうか。こう3本続けてみると、いろいろと違いを突きつけられました。「総理と私」という、後でいろんな評価をみると韓国本土では人気がいまいちだったとか・・・。うなずけます。これは、おなじ契約結婚から始まり、最後は相思相愛なのですが、イマイチおもしろくない。さんざん引っ掻き回し、引っ張ってみたものの、え?これで終わり?納得いかない・・・と改めて考えてしまう始末。なにがダメだったか。

 スキャンダル系WEB雑誌の女性記者がひょんなことから総理候補(すぐに総理になるんですが)と契約結婚をすることになる。これは、取材対象であった総理候補とたまたま熱愛報道を勘違いされ、今更否定することもできない、否定することによって総理候補のイメージが悪くなるとの間接理由から、結婚せざるを得ない状況に追い込まれるのです。歳の差もあるし、総理候補は3人の子持ち。いきなり、3人の母親にならざるを得ないところから、始まるわけです。

 でも、いろいろなことがあり、総理自身、子どもそれぞれの問題を丁寧に解決していきながら、なくてはならない存在になっていき、次第にお互いに惹かれあう、わけですが、なんか最後はすっきりしない!最後まで期待させておきながら、これはないでしょー!と。なぜか。

 この総理。検事あがりの国会議員で総理までになった(といっても一番権限があるのは大統領なので、2番目なのかな?ちょっと韓国の事情に詳しくないので、そこはなんとなくで)3人の子持ちー高校生?小学5年生?幼稚園の3人。検事あがりということもあり、クリーンなイメージを大切にしていて、清廉潔白であること、常に庶民の味方で正義を振りかざしたいという信念をもった、まあ、正義のヒーローみたいな人なんです。それが、このドラマをダメにした、と言っても過言ではないのかも。

 というのは、そういう正義のヒーロー的な国会議員が、愛だ、恋だで振り回されたり、溺れてしまってはいけない、というの常に意識しているのか、(俳優が下手なのか?)表情にほとんどでてこない。つまり、見ている方は、ツンデレのデレがないので、全然胸キュンしない!確かに、常に秘書やSPが付いて回るので(下手すると家の中も家政婦や子供たちの目がある)、そうデレデレしたり、抱き合ったり、キスしたりできないのはわかるけど、あまりにも潔癖過ぎて、フツー過ぎ、つまんない。

 契約結婚の内容も極度に順守する/させようとお互いに意識することもないし、お互いに嫉妬したりやきもちをやいたりして、本当の自分の気持ちに気づくきっかけにもなっていない。この辺は、定番の展開方法なのに、これを利用しないから、いつまでたっても平行線が続くだけ。うーーーん、いったい何が言いたかったのだろうか。

 むしろ、いつも財閥系のツンデレが主人公のお話だっただけに、どう財閥系が政治に干渉して政治が歪められていくのかを垣間見ることができた気分。大統領さえ、財閥に頭が上がらず、気を使って財閥への捜査を途中で取りやめたり、財閥の顔色を窺ったりとこれじゃあ、脱財閥なんてことは無理な社会なんだろうな・・・と。日本も財閥が多少残っていますが、ほとんどは名前だけらしく、戦後、解体されたことから、自由競争が加速したといわれ、財閥のマイナスは払しょくされたといわれていますよね。そういう道をたどらなかった韓国では、今でも財閥が牛耳っていて、なにかおかしな社会形成になっているのかな?と思いました。詳しいことは、また勉強でもしてから・・・。

 だめだ・・・。このドラマに20時間近く時間を費やしたのがもったいない・・・と思わされ、後悔。国会議員だからと潔癖を通すのもいいけど、ドラマだけにその潔癖さを維持しながらもどう自分の人生を楽しむ、家族を守っていくのかというのをひとりの人間らしく、人間臭く表現してほしかった、と思いますね。

【ネタばれあり】「1%の奇跡~運命を変える恋~」はリメイク版、でもなんか切ない出来上がりです

 これもツンデレ財閥系御曹司が庶民の女性に契約恋愛を持ち掛け、本気になってしまうという韓国ドラマでは定番の契約系恋愛のストーリー。おまけにこれはリメイク版で、何年か前に同じタイトルでほぼ同じようなキャラクターで(もちろん追加されたり、関係が変わっていたりはいろいろありますがメインは変わっていない)、作られています。もう何年も前に見たので、うろ覚えではありますが、なんかとても切ない雰囲気が最後まで漂っていましたね。

 それは一重に、財閥系御曹司だから、6か月の契約だからということにこだわり、ふたりとも遠慮がちに、意図的にブレーキをかけているからです。契約だからその一線を越えてしまえないという事務的なことだけではなく、財閥系という環境に引きずり込んでしまうことへの罪悪感が踏み出したくない、踏み出せない、と感情に壁をたてて必死に防いでいるけど、実はダダ漏れ・・・。だから、胸キュンだけど、切ないのです。

 まったく韓国の今の様子がドラマを通してしか知らないので、実際のところこの財閥系に対する憧れとか現実がまったくわからないのですが、こんなことがありえるのでしょうか?もう日本ではなかなかないシチュエーション(トレンディードラマ最盛期でもあまり取り上げられなかったように記憶している)だけに、こんなに似たようなテーマが取り上げられること、契約結婚がストーリーになることが、正直不思議でたまりません。そして、契約から始まった擬似恋愛が成就するパターン、確かにストーリーとしては面白いですが、本当にこんなことありえるのかなぁ?

 今回はいつになく、すごい幕開けだった気がする。もう、闘志むき出しの牛同士が頭突きするかのごとく、どうやっても平行線のままで、契約にすら持ち込むことができないし、できても平行線でおわるのではないか?と。でも、そこはビジネス経験豊富なツンデレ御曹司がうまく切り出してまずは路線に乗せたところが見事だと思いました。そして、それがいずれは交わっていくのか・・・と。傍目にはただ一緒に過ごすときが多ければ多いほど情が移っていくのかな?くらいの印象だったように感じます。だって、お互いに好きにならない!を謳っていたからね。それがいつのまにか・・・というのはちょっと単調な展開だったようにしか思えないところも否定できません。

 冷静に考えると、恋愛結婚のほかに見合い結婚というのもあって、数は少なくなったとはいえ、まあ契約といえば契約恋愛に非常に近いものではあると思える。だって、お互いに好きあって結婚したわけではなく、決められた結婚、みたいなところもある。祖母の時代は初めて相手の顔を見たのは、結婚式の当日とかいうこともあった。遠く離れているし、政略的なこともあったかもしれないけど、親が決めたことに異を唱えるなんてできない時代ですしね。

 じゃあ、そういう見合い結婚をした夫婦が過ごす時間が長いから次第に情が移って恋することになった、ってことどのくらいあるのだろうか?祖母は見合いだったけど、結婚して子供が生まれて数か月でダンナさんが戦争に行って、そのまま戦死。果たして情が移るまでの関係だったかはさだかではありません。友人に二人ほど見合い結婚をした人がいますが、なんかそんな甘い感じは見受けられません。まあ、結婚生活、ましてや子供とか生まれると余計ですが、もうそんな恋だの好きだの言っている暇はないかもね。お互いこっぱずかしいとか口下手とか、日本の文化にはそういうものがタブーとか生活に埋もれてしまう感情っていうの?まあ恋愛結婚の私たちですら、子供が2人生まれるとそんなことはなくなるとは言わないけど、薄れる?二の次、三の次かな。アメリカとかだと結構ラブラブだったりするんだけど、なんでだろうね、そういう甘い感じはすっかりなくなってしまうね。

 定年を迎えてとか子供が独立したとたんに離婚を切り出す夫婦も最近は多く、どうも見合い結婚に多いという話を聞いたことがある。つまり、契約という形から入った場合、恋愛感情につながる確率は低いのではないか、と私は考える。現に、上流社会の方たちの結婚は、いわゆる家やビジネスのための政略結婚が多いと思うのですが、これがまさに契約結婚ですよね。もちろん、そうやって結ばれて幸せのカップルも多いとは思いますが、やはり家や会社のために自分が犠牲になったという思いが強く、相手に情が移ることは少ないのかもな・・・と勝手に思い込んでます。これもいろんなドラマの見過ぎかもね。実際に統計を取ったわけではないから、ほんと勝手な見解ですね。

 だから、韓国ドラマの契約恋愛系がこんなに確率が高く成就されてしまうことに少々疑問を抱きながらも、どうこのツンデレ御曹司が相手の女性に惹かれていき、デレデレになっていくのか・・・そのデレデレの瞬間が楽しくてしょうがない!というのがツンデレ好みの私としてはたまらないなと思いましたね。別に御曹司だからとか金持ちだからとかは私にとっては二の次なんですが・・・庶民同士だとあまりストーリーにならないっていうのもあるのかな。また、韓国ではそういう憧れがものすごく強いのもしれません。日本だって、相手にするなら、イケメンで金持ちがやっぱり条件の2大条件に上がってくるからね。なんだかんだいっても、そこは最初は外せないわけです。まあ、実際に結婚するとなると、それもどっかにいってしまうことは多々ありますけどね・・・。

 16話で完結するし、各話が40分くらいと短めなので、結構かるーく見られました。切なさに存分に浸りたい方、もちろんちゃんと最後は救われるので、切なくて終わりではないので、安心してみてもらうことができます。あまり意地悪すぎの魔女や意地悪な展開もないので、そこは気をリラックスさせて楽しめるかな。

「私の名前はキムサムスン」を再びみて、等身大の生き方にちょっと感動・・・

 いつだったかなぁ。民放で放送していた「私の名前はキムサムスン」をみたので、おおよそのストーリーは覚えているつもりだったけど、なんとなくまたア〇ゾンプ〇イムビ〇オで観てしまいました。おそらく、民放で放映されていたのは、あちこちがカットされていたものだとおもうので、それと比べるとカットされていないものだと思います。とはいえ、どこがカットされていた、とかを覚えているわけではありませんが。

 2回目ですが、それはそれで新鮮味がありました。いわゆる、財閥系男子のツンデレっていうのかな?契約結婚のつもりが本当に恋してしまいました、というまあ現実にこんなことありうるのだろうか、と思えるほどのストーリーです。だって、ヒロインはどうやっても美人とはいいがたい、ちょっとぽっちゃり系の年増(といっても30歳ですが)のパティシテール。

 この手の契約による恋愛とか結婚というものが、よく韓国ドラマでは取り上げられますが、そんなに頻繁に、日常的にあるのかなぁ。韓国には行ったことがないし、通でもないので、そこまではわからないけど、こんなに恋愛ドラマのネタになるくらいだから、相当憧れとして定番のテーマなのか、リアルにあることなのか。

 2回目に見ていてなんかわかったこと・・・。この「サムスン」という名前の意味。日本でいうところの、太郎、次郎、三郎、のように生まれた順番で付けられる定番の名前で、韓国では3番目に生まれた女の子につけられる定番の名前らしい。特に、中国や日本と並んで跡継ぎとして男子が重宝された文化からすると、女の子が3人も続くことに対し、なんとかそこで打ち止めにしたい!という思いも含まれての命名だそうだ。ただし、そこには田舎っぽいとかちょっとダサイみたいな意味も含まれていることから、今の現代で「トメ」とかつけられることらしい。(トメさん、ごめんなさい)

 日本でも「末子」という名前を付けられた女の子には、「これで女の子の子供は最後にして、次は男の子にしてほしい!」という意味があることをこの年にして知った。実は、私の祖母の兄妹は7人姉弟。私の祖母は5番目で、祖母のすぐ下の妹は「末子」。末子おばちゃんまでずっと女の子で、末子おばちゃんの下の7人目でやっと待望の男の子が生まれたらしい。だから、ある意味、「末子」と名前をつけるのは効くのかも。「トメ」さんというのも打ち止めからきているのかもしれない。自分の名前の由来がそんなことで付けられたとなれば、それはそれでちょっと嫌だよね。望まれていない気がしてもしょうがない。だから、キムサムスンは本気で改名を望んでいたのです。

 それから、このサムスン、少々ぽっちゃり系なのもあるのか、基本的にはふてくされたような表情が多く、まあ口も悪くて、よく毒を吐くことも多いので、相手への感情の伝達があまりうまくありません。でも、自分の容姿や年齢にめげることなく、恥じることなく、前向きに、そして仕事の腕(パティシエ)は本物なので、自信をもって取り組むその一生懸命さに心を打たれていくのだと思います。口も悪くて、一応毒は吐いても、気持ちがこもった対応をしてくれる、言葉とは裏腹の行動を取る、など実はやさしさにあふれているんだなとか弱いところを隠すために毒を吐いて身構えているんだな、ということみたいです。それって、段々みていると等身大のありのままでぶつかっていきながら必死に生きている姿なんですよ。なんかけ健気だな・・・と思うようになります。

 確かに相手はツンデレの御曹司ですが、美貌の相手ではないので、なんか妙に親近感がわいてきました。毎日を大切に一生懸命生きていけばきっと自分にあった幸せがやってくる・・・と。

 よくジノンが「サムスンは自分のことをわきまえている」と他人に説明していましたが、それってどういうことなのかな?と思いました。わきまえるって?高望みをしない?自分の立場を理解する?多くを望まない?なんかそういう表面的なことではないように思います。どういう意味かは見終わってからも考え続けていますが、まだでません。もう少し悩んでみたいと思っています・・・。

「スコーピオン」は超絶ドラマだわ・・・

 アメリカのドラマ、「スコーピオン」というのを21話見終わりました。地上波でやっていたのを録画でため撮りしておいたのですが、やっとそれを見終わったのです。アメリカのドラマって推理もの、刑事ものでも結構なアクションが伴っているのが当たり前なのですが・・・このスコーピオンというのは、そもそもの設定がちょっと変わっているので、必然的にアクションが半端なく超絶でした。

 設定が変わっている・・・というのは、主人公はIQ197(だったかな?)で世界4番目(って、まだ3人も上が世界にはいるんかい!)の超天才で、彼がスコーピオンという会社を興し、そこに数学の天才、心理学者の天才、機械工学の天才(それぞれIQは不明ですが、半端ない天才であることは間違いありません)がいて、この4人で国家レベルの最上級の問題解決にあたる、という話なのです。基本的には知力がとんでもない人たちなので、彼らの会話についていけないことは当たり前、なんでそんな発想、知識がでてくるの?できるの?の連発なのです。最初はお口あんぐり!でしたが、そのうち麻痺して当たり前になっていきます・・・。

 例えば、最初のストーリーは、飛行場の管制塔のソフトウェアをアップグレードしたら、ウィルスが仕込まれていたか、不具合があったかで、飛行機の離着陸管理ができなくなり、上空を数々の飛行機が旋回し続けている中、このソフトウェアを元に戻せ、という指令がでます。じゃないと、これらの飛行機が大都会に墜落して大惨事になると。それも時間が決まっている。最初は直そうと試みるけれど失敗し、バックアップからリロードさせようとしたけど、すでに新しいのに置き換わっている。そしたら、離陸時間の時差を利用して、飛んでいる飛行機からそのソフトウェアをダウンロードしてこようということになる。その飛行機に滑走路すれすれを飛んでもらい、その下をスポーツカーがぶっ飛ばして飛行機と並走して数十秒の間に飛行機とスポーツカーの間をケーブルで接続してダウンロードさせる、というものでした。これ実写?CGじゃない?と思わせるような、実写ならとてもあり得ない撮影を試みたことになりうるぞ、というシーンでした。だって、飛行機と300キロ?くらいにぶっ飛ばしたオープンカーのスポーツカーがですよ?冷静に考えてもおかしいか・・・。

 ほかに、山火事の中を人命救助、麻薬カルテルに誘拐された人質の救助、ボスニアで墜落したヘリの運航システムと飛行データの回収、神経ガス研究所がサイバーテロで乗っ取られたので奪取(下手するとサリンがばらまかれる)、老朽化した原子炉がメルトダウンする危機を救う、とか・・・。ちょっとそんなのあり?ってのばかり。

 見ただけで、情報、スピード、角度、高さ、長さがわかって、どのくらいで何をしなくてはならない、というのが瞬殺でわかってしまうし、みんなコンピューターに強くて、ハッキングは当たり前の人たち(あー中には、ある車にどの角度で何センチ離れたところから何キロで追突しなくてはならない状況で、そう追突してたなー)ですが、唯一の欠点は人とのコミュニケーションが取れず、相手の感情が理解できないこと。だから、ケンカを売っているような会話しかできないので、誤解されやすい。それを和らげてくれたり、誤解されないようにとりなしてくれる人が二人ほど加わり、最強のチームになります。

 ただ、この4人に共通しているのは、天才だけど必ずしも幸せな時間を過ごしていたわけではないということ。天才がゆえに、学校がばかばかしく思えて、友達には変人扱いされ、教師に理解されず邪見にされ、家族にも理解されず、不幸な人生を過ごしてきたらしいのです。天才に生まれれば・・・と憧れることがあると思いますが、それはそれで幸せにはならないようです。孤独だから天才同士が集まり、彼らにしかできない命がけのこと(国家レベルの危機を救う?)をして生きていくしかない、ということみたいですね。

 この主人公、実は実在の人みたいですが、ストーリーはフィクションなのかな?さすがに実話ではないとおもいますが・・・。たまにはこういうのも面白いです。もう少し気が抜けるのが次は見たい、とは思いますけどね。

「ラブソングができるまで」はちょっと耳を疑うほどよくできてた!

 なんとなく〇mazon〇rimeで見てしまった映画のひとつです。映画ってドラマと違って2時間くらいで終わるので、気軽に見てしまいますね。毎晩、一本ずつ気になるやつをと見ることもできるし。ラブコメが好きなので、あまり重くなく、軽いノリで楽しめるものを・・・と。

 そしたら、確かに軽い、おもしろい。そもそもヒュー・グラントがでていて、重いテーマってあるのかな?彼の声質なのか、話し方によっては、とっても軽い奴!と軽蔑したくなるほどの口先、ナンパなかるーい役がはまります。これって、彼にとってはちょっと不名誉なことなのかもしれないけど。だから、ストーリーも気軽に楽しめた。

 それ以上にちょっと楽しんでしまったのは、ストーリー上、彼が所属しているグループとヒットした歌の数々。私は、ちょうど1983年からアメリカのLAに転勤で引っ越してずっと90年代半ばくらいまで10代を過ごしました。Duran DuranCulture Clubなどが全盛期の音楽を生で聴いていたので、元ポップスターのアレックス(ヒュー・グラント)のうたっていたかるーいノリの歌やMVなど、当時よく見ていたMTVなどにでていたんじゃないかと疑うほどのできでした。そうなの、そうそう、このなんかかるーい、ただのノリだけの歌と歌詞とMVがなんとなく楽しくて、話題になっていて、それでルンルンだった!という・・・。このグループや歌、実は実在していて、知らないのは私だけじゃない?とちょっとぐぐってしまうほどでしたよ。もちろん、映画用にオリジナルで作ったものですけれど、その時代を反映していて、すばらしい出来でした。

 それとは対照的に、現代のヒットソングメーカーをコーラという、これまたオリジナルなアーティストを作り上げたのですが、仏教を絡ませた官能的な演出でちょっと気持ち悪い感じがします。このアレックスとコーラというとても対照的な芸術の表現者がまた面白いです。アレックスの作った作品がコーラにどのように受け入れられるか?

 ソフィー(ドリュー・バリモア)はど素人だけど、詩のセンスを持ち合わせていて、アレックスとなんとなく気が合いそうというだけで採用し、なんとか二人で作品を作り上げます。ソフィーは、今の女性らしく、自分の強い意志をもっていて、それを貫くだけのパワーを持ち合わせている、こびないところが、まあ典型的な映画の展開ではありますね。じゃあ、後は二人が恋仲になるかどうかはお楽しみとして。

 頭をからっぽにして、難しいことを考えずに気軽に楽しみたいラブコメとしてはおすすめの一本です。二人のデュエットもちょっとあるし、きれいなので、頭が疲れた時などにはまた見たいかも・・・💛

「冷静と情熱のあいだ」ってなんとなく面白いタイトル

 2001年の映画だというから、ずいぶん前のこと。そういえば、当時、あまり本屋が好きでないし、本もあまり購入しない私が、なんとなく手に取ったちょっとおしゃれな本を買ってしまったことがありましたが、たしかそれがこれ。でも、実際には読むことはなく、処分したんだと思うのですが・・・。赤と青の本に分かれていて、それがボックスに入っていた。赤は江國香織、青は辻仁成が作者だった、なんか不思議な本。失恋でボロボロだった時に、なんとなく癒してくれそうだから?と買ったんじゃないかな。でも、本なんかで癒されるタイプじゃないのか・・・。多分その直後くらいに今のダンナに出会っていたから、もう癒されたのかもしれない。

 原作はだから知らない。でも、なんか映画化されて話題になっていたことは覚えている。当時、ケリーチャンがとても有名で、あちこちにでてた。その一環だったのか、まあとても目つきのきつい女優さんだな~くらいにしか今は思わない。そこそこ日本語も話しているから、まさか香港の女優さんだとは予想もしていなかった。

 私は、昔から竹野内豊のファンだから、今からするととてもふっくらしていて、ちょっと触れたいくらいのふわふわ感。そして、朴訥な素朴な青年を演じている。今の竹野内豊と比べると、温かみを感じるかな。

 その竹野内豊と比べると、ケリーチャンは目はきついし、表情も硬い。だから、一応「冷静」の象徴として描かれているけど、ちょっと冷たすぎる。セリフも服装もなんか冷たい。冷たい女優さんということもあってケリーチャンにしたならやむを得ないけど、もう少し気持ちが本当の気持ちを伝える演技を期待したい。

 逆に竹野内豊は「情熱」の象徴(一般的な男女を区別するカラーと逆なのは意図的か?)として、男性にしては珍しいほどに表情が顔に出やすい。普通なら、無口とかツンデレが当たり前の男性キャラが、手に取ってわかるほど表情が豊か。

 つまり、お互いのもつイメージが「冷静と情熱」で表され、その「恋に」冷静な女性と情熱的な男性の温度差を映画の中でちょっといらいらするくらいに表現されている、って感じかな。だから、「冷静と情熱のあいだ」なんだよ。恋になかなか成就せず、うろうろしてみて、最後に行く着くところは・・・と。

 恋愛って、冷静に分析してみると、実はそうなのかもしれない。たまたまイタリアのミラノやフィレンツェを舞台にしているけど、どこかしこで起きている恋愛というものは、「冷静」と「情熱」の間でうろうろし続けて、それがやがて成就して円熟していく・・・それがなになのかはわからないけど、それが恋愛なのです。だからまどろっこしいし、胸キュンするし、苦しいこともしばしば。そんな感覚、結婚してもう13年も立つと忘れてしまった。いわゆる恋愛から愛情に変わったから、もうあのころの「冷静(これ、ダンナ)」と「情熱(これ、私)」のあいだでうろうろした時代は過ぎたこと。なんか懐かしいな・・・と思う。

 こんな風に、分析してしまうと面白くないけど、面白い視点で江國さんと辻さんが描いたんだな、と思う。なんか淡く、緩い感じで流れていくけど、そんなもんか?とも思える。あまり携帯電話やスマホが発達していない時代だから、いろいろと文明的にもまどろっこしい、アナログな部分はあって、それがまたいい味をだしていると思える。2時間たったとは思えない。なんとなく、いいかな、この映画。ケリーチャン以外はね。